美術探索隊!!〜ウィーン分離派後編〜
私は肖像画を描けるので描く
第3回
どうもこんにちは。塚原正太郎です。
前回、前々回の記事ではクリムトとシーレを取り上げ、ウィーン分離派とそこに続く世代という大まかな流れを見ていきました。
▲クリムトの記事はこちらから
▲シーレの記事はこちらから
そして今回は彼らと同時代に活躍したオーストリア人の画家を紹介します。
その名も・・・
ドン!!
オスカー・ココシュカです!!
〜ココシュカの画風〜
さて早速ですが、ココシュカの作品の特徴についてざっくりと見ていきましょう。
このように力強く豊かな色彩で描かれた人物画がココシュカの作品でもとりわけ有名です。
その画風から彼はしばしば表現主義に分類されますが、ウィーン分離派などの同時代の芸術運動には参加しておらず、独自の活動で自身のスタイルを貫きました。
たとえば、クリムトやシーレがデリケートで細やかな線で人物を描いたのに対して、ココシュカは荒々しく引っかいたような筆致で人物を描く、といったように人物の描写をとってみても彼の独自性がうかがえます。
〜ココシュカの生涯〜
どのグループにも属さず独自で活動を続けてきたココシュカは、どのような人生を送ったのでしょうか。まずは彼の略歴から見ていきましょう。
1886 オスカー・ココシュカ生誕
1904 かつてクリムトやシーレも在学していた美術工芸学校へと進学する。
1908〜09 『人殺し、女たちの希望』という演劇を上映するが、それがあまりに過激な内容だったので退学させられてしまう。
1910 芸術雑誌『デア・シュトゥルム』で表紙を手がけるなど、装飾美術の仕事を中心に活動する。
1912 作曲家グスタフ・マーラーの未亡人であるアルマ・マーラーと恋愛関係をもつ。
1913〜14 アルマとともにいるココシュカ自身をモチーフにした代表作『風の花嫁』を描く。
1915 ココシュカは第一次世界大戦のため従軍し、そこで頭部に重傷を負う。その間アルマは別の男性と結婚をして、ココシュカのもとから離れてしまう。
1917 従軍を終えたココシュカは、大戦での負傷とアルマとの失恋によるショックでしばらくの活動を控える。
1918 アルマのことを忘れられないココシュカは、彼女と等身大の人形を作るよう女性作家のヘルミーネ・モースに依頼する。出来上がった人形とともにココシュカはしばらく生活を送る。
1920〜30 ヨーロッパや北アフリカ、中東にかけての長きにわたる放浪生活を送り、そこで見た風景を中心に制作する。
1931〜35 ウィーンに戻ったココシュカだが、ナチス政権の圧力によってプラハへと移住することになる。
1937〜38 ナチス政権がココシュカの作品を「退廃芸術」と非難し厳しく取り締まる。ココシュカはイギリスへと亡命する。
1938〜53 スコットランドに住んでいたココシュカはそこでできた友人や地方風景などを描き、多数の作品を制作する。
1953 ココシュカはスイスへと移住し、残りの生涯をここで過ごす。また、ザルツブルクの美術セミナーで教鞭をとるなど、後進の育成にあたる。
1960 エラスムス賞を受賞する。
1980 オスカー・ココシュカ死去
ココシュカが手がけた『人殺し、女たちの希望』のポスター
ココシュカが放浪生活中に描いた風景画
ひとくちメモ
デア・シュトゥルム:1912年から32年にかけて、ドイツにおける国内外の近代美術を推し進めるなかで、大きな影響を及ぼした芸術雑誌および画廊のことです。ちなみに「シュトゥルム」とはドイツ語で「嵐」という意味をもちます。
退廃芸術:ナチス政権は古典的な美の規範に即した芸術を推奨し、ドイツ民族のモラルを高めようと試みます。対して、近代美術や前衛美術などは道徳的に堕落したものとみなし「退廃芸術」として、それらの美術を厳しく取り締まりました。
エラスムス賞:ヨーロッパの文化、社会などへの貢献を評価して授与される賞です。1958年に設立されました。
〜アルマとの恋愛/肖像画の変遷〜
1912年、ココシュカはアルマ・マーラーと恋愛関係になり、彼女を度々主題として取り上げます。
しかしながら、執着的で束縛の強いココシュカの性格に嫌気がさしたアルマはココシュカと別れ、他の男性と結婚してしまいます。そうして別れたあと、ココシュカはしばらくの間アルマへの思いにとりつかれ、ついにはアルマと等身大の人形を作り、ともに生活を送ろうと決めました。
さらにココシュカは、その人形をモチーフにした肖像画も制作しています。
つまり彼は人形としての肖像と、それをもとにして描く肖像画という二重の肖像制作を行ったということになります。結局人形は、1922年にココシュカ自身の手によって壊されてしまいますが、この一連の出来事はココシュカの制作に大きな転機をもたらします。
そこで、人形が壊された1922年をひとつの区切りとして、その前後の彼の作品をそれぞれ比較して見ていきましょう。
1922年以前の作品
まずは1922年以前の作品についてです。ここで描かれる人物たちは一見無表情で落ち着いてるようですが、手の描写や周囲の空気感からどこか圧力にさらされたような雰囲気があります。これは単にモデルの姿を描いたというよりも、モデルの内面やそれに対するココシュカの反応が画面上に反映したからだといえます。
1922年以降の作品
続いて1922年以降の作品です。ここで描かれる人物はどれもココシュカ本人によく似ており、たとえば鼻からアゴまでを長くして描かれるなど、モデルの顔立ちに似せるというよりも、ココシュカ自身の容貌の特徴が投影されています。
人形の肖像画においてモデルへの深い感情移入を経験したココシュカは、それ以降、対象と自己を同一視させて肖像画を描くようになりました。
クリムトやシーレは自己の欲望や身体症状に基づいて人物を描きましたが、ココシュカはそこからさらに、自己投影というかたちで人物画という分野を拓いたのです。
〜批評家アドルフ・ロース/世紀末ウィーン総括〜
建築家であり批評家でもあるアドルフ・ロースは、ココシュカの才能をいち早く見抜き、作品の購入などで彼を支援しました。
ロースは徹底した合理主義・純粋主義者であり、ウィーン分離派のもつ装飾性に対しても“排泄的”であるとみなし、過激な言論で反対を示していました。
偶然にもロースが“排泄的”と揶揄したちょうど同時期に、精神分析学者であるフロイトは「性格と肛門愛」に関する論文を発表していました。これは遠からずウィーン分離派の装飾性への理解を促すような内容だったのですが、ロースはそれに共感はしませんでした。
このように世紀末ウィーンはクリムトやシーレ、ココシュカなど表現主義的な自由を主張した画家だけでなく、アドルフ・ロースや批評家のカール・クラウス、また音楽ではアルノルト・シェーンベルク、哲学ではルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインなど、純粋さや厳格な規律に重きをおいた立場の人々もおり、いわゆるモダニズム的な対立のあった時代でした。
ひとくちメモ
「性格と肛門愛」:フロイトは人間の発達段階を5つに分け、そのうちの2段階目にあたるものを「肛門期」と名付けました。幼児期における排泄のコントロールに対する欲求の度合いが、のちに、お金や時間など自分が保持しているものへの執着の度合い、社会の規律や制約を重視する度合いに結びつく、と述べられています。
モダニズム:1880年ごろから1960年代ごろにおける作品や作家、動向などを包括した名称のことです。「近代美術」とも呼ばれます。
〜今回の探索スポット!!〜
今回ご紹介した作品は以下の場所で見ることができます。
『自画像/退廃の画家』
▶︎スコットランド国立近代美術館 75 Belford Rd, Edinburgh EH4 3DR イギリス
『人殺し、女たちの希望』のポスター
▶︎ニューヨーク近代美術館 11 W 53rd St, New York, NY 10019 アメリカ合衆国
『エルサレムの風景』
▶︎デトロイト美術館 5200 Woodward Ave, Detroit, MI 48202 アメリカ合衆国
『アドルフ・マーラーの肖像』
▶︎東京国立近代美術館 〒102-8322 東京都千代田区北の丸公園3−1
『風の花嫁』
▶︎バーゼル市立美術館 St. Alban-Graben 16, 4051 Basel, スイス
『画家と人形』
▶︎ベルリン絵画館 Matthäikirchplatz, 10785 Berlin, ドイツ
『エゴン・ヴェレスの肖像』
▶︎ハッシュホーン美術館 Independence Ave SW &, 7th St SW, Washington, DC 20560 アメリカ合衆国
『トマーシュ・ガリッグ・マサリクの肖像』
▶︎カーネギー美術館 4400 Forbes Ave, Pittsburgh, PA 15213 アメリカ合衆国
『アドルフ・ロースの肖像』
▶︎シャルロッテンブルグ宮殿 Spandauer Damm 10-22, 14059 Berlin, ドイツ
『アルマ・マーラーの人形』(白黒写真)はウィーン応用美術大学に所蔵されています。
『ロッテ・フランツォースの肖像』はフィリップ・コレクションに所蔵されています。
『エミール・G・ビュールレの肖像』はエミール・ビュールレコレクションに所蔵されています。
さて!ウィーン分離派関連は一旦ここで終わりです!
次回はまた別のテーマを取り上げたいと思います!
それではまた今度〜!!
参考図書
『世界美術家大全』
『ART SINCE 1900(図鑑1900以後の芸術)』
参考記事