美術探索隊!!〜ウィーン分離派中編〜
あらゆる者は生きながら死んでいる・・・
第2回
どうもこんにちは。塚原正太郎です。
前回の記事ではグスタフ・クリムト及びウィーン分離派について取り上げましたが、今回の記事ではウィーン分離派に続いた画家について紹介します。
▲前回の記事はこちらからどうぞ
さてさて今回登場していただくのは・・・
ドン!!
エゴン・シーレです!!
〜ねじ曲がる身体/フロイト的解釈〜
シーレの作品はシンプルな背景に単独の人物を描いたものが多いです。緊張感のある輪郭線と素早く塗られた色によって、臨場感と切迫した空気がわれわれ鑑賞者へと伝わってきます。
さて、前回の記事ではクリムトと精神分析学の関連性について書きましたが、今回はシーレと精神分析学の関連性に基づいて、彼の作品の特徴を見ていきたいと思います。
フロイトはクリムトの記事でも挙げたように“夢”や“自我”に関する考えを提唱しましたが、そこからさらに“性的倒錯”や“不安神経症”といった考えへと発展させました。
それぞれ簡単に記すと、
性的倒錯:フロイトは性的倒錯の種類をおよそ2つに分けました。
①性対象倒錯
・絶対的な性対象倒錯:性対象が同性に限られる
・両性的な性対象倒錯:同性も異性も性対象になりうる
・機会的な性対象倒錯:特定の外的条件下において同性が性対象になる
といったように対人における性的倒錯
②性目標倒錯
・身体部位(足や毛髪など)や無生物(衣類や下着など)を性的に利用する
・苦痛を与えたり、苦痛を受けたりすることで快感を感じる
など行為における性的倒錯
不安神経症:本能的な欲求とそれを抑圧しようとするはたらきがお互いに引っ張り合うことで不安は生じます。不安は通常「昇華(欲求をスポーツや創作によって解消すること)」や「合理化(何かしらの理屈をつけて受け入れがたいものを解消すること)」などの防衛機制によって軽減されるのですが、防衛機制が過剰にはたらいたり、機能的にはたらかなかったりした場合、不安は精神的・身体的な不調となって現れます。このような症状を不安神経症といいます。
これらを踏まえてシーレの絵画を見ると、シーレと精神分析学で共通するものが分かりやすいと思います。
まず性的倒錯ですが、これは彼の自画像によく表れています。
性的倒錯の中には、窃視趣味/露出趣味といったものがあり、これは文字通り、排泄など隠されたものをのぞき見る事/自身の性器など隠された部分をさらけ出すことです。
シーレのこの自画像においても、鏡に映った自身の姿を見るシーレ/絵画を通じてその姿を見るわれわれ鑑賞者/そしてそれらを凝視するかのように絵の中から見返してくるシーレ、といった構造が生まれます。この絵画を見たとき鑑賞者はシーレの眼差しと一体化し、あたかもひとりの窃視者として見ているかのようになるといえます。
次に不安神経症についてです。
痩せこけた男の両腕・両足は切断され、体はわずかに非対称でどことなく歪んでおり、目の周辺は暗い隈で囲われ、口は叫んでいるというより、まるで死体のように開かれています。この自画像はまさに不安神経症に苛まれている瞬間をとらえているかのようです。
クリムトは彼自身の欲望に基づいて絵を描きましたが、それに対してシーレはモデルの抑圧を、身体的な症状を通じて表現しました。
〜シーレの生涯〜
では次に、シーレがどのような人生を送ったのかを見ていきましょう。
1890 エゴン・シーレ生誕
1906 クリムトと同様、美術工芸学校に入学するが、工芸よりも絵画を学ぶことを望んだシーレは、美術アカデミーへと進学する。
1909 保守的な美術アカデミーに価値を見出せず退校、クリムトに弟子入りを志願し、独自に活動を始める。またこの時、ゴッホやゴーギャンの回顧展、分離派が開催したムンクやホドラー、トーロップの展覧会に行き、強い影響を受ける。
1911 当時シーレのモデルを務めていた17歳の少女ヴァリと同棲を始めるが、シーレの家に娼婦が出入りしヌードモデルをしていたことが近隣住民に知られ、追い出されるようなかたちで2人は転居する。しかし転居先でも、庭でヌードモデルを描いていたことが近隣住民の不満を買い、再びの転居を余儀なくされる。
1912 未成年者の誘拐・淫行の疑いで、シーレは警察にとらえられ、24日間の拘留を受けることになる。あげくに、性的に露骨な猥褻物であるといった理由で、シーレの素描の多くが焼却されてしまう。
1914 近所に住んでいたエーディトという女性と恋仲になる。このときシーレはヴァリとも関係を持っていたが、エーディトとの結婚を決める。これにショックを受けたヴァリはシーレと別れ、二度と彼の前に姿を見せることはなかった。
1915 シーレとエーディトの結婚式が行われるが、このときシーレはエーディトの姉であるアデーレとも親しく、2人の間には肉体的な関係があった。結婚からほどなくしてシーレは第一次世界大戦による召集を受け、従軍中にシーレは膨大な量の構想を練る。
1918 第49回ウィーン分離派展でシーレは多数の新作を発表する。そこで一躍注目を集め、シーレの画家として成功する人生が始まろうとしたが、妻エーディトが当時流行したスペイン風邪で亡くなる。そしてシーレもそのあとを追うかのようにスペイン風邪によって死去。
〜クリムトとの共通点・相違点〜
1909年、アカデミーから離れたシーレは工芸学校時代の先輩であるクリムトに弟子入りを志願し、クリムトはシーレを快く受け入れます。
すでにアヴァンギャルドの舞台からは撤退したクリムトでしたが「抑圧された欲望を解放する」という精神性はシーレに引き継がれていきます。
シーレはクリムトのことを尊敬していましたが、装飾的な洗練さをもつクリムトの作品には懐疑的であり、ポスト印象主義や象徴主義、表現主義の画家たちから自身の画風を確立するうえでの手がかりを得ようとしました。
ポスト印象主義
ひとくちメモ
ポスト印象主義:1885年から1900年ごろにかけての進歩的な画家を包括してさす言葉です。印象主義以降ということでこの名が付けられていますが、決まった様式は存在せず、あくまで便宜的な呼称です。
表現主義:歪んだ描写や強烈な色彩によって自己の内面を描くことが特徴です。20世紀ドイツ美術の主流のひとつとして挙げられます。
象徴主義:象徴主義は19世紀フランスの詩人、ランボーやボードレールなどのあいだで発足し、多くの画家に影響を与えました。神話や超自然的なものが主なテーマで、異様で謎めいた世界観が特徴です。
〜スキャンダラスな生活〜
シーレはスキャンダルの多い生活を送りましたが、このことは彼の制作にも密接に結びついています。
シーレの描く人物には、彼と性的な関係があった女性が多く登場します。そのため主題も性的なものが多く、また彼は人間の身体や精神を、道徳的な存在というより、動物的な存在とみなしていました。
そういったシーレの態度を当時の保守的な社会は強く非難するのですが、シーレはそれにひるむことなく制作を続けることによって、創造的個性と自己決定に対する自由を主張します。
1918年に開かれた第49回ウィーン分離派展にてシーレの続けてきた画業がようやく認められ、一躍注目を浴びるようになります。しかし画家としての大きな一歩を踏み出したのも束の間、シーレは当時流行していたスペイン風邪によって亡くなってしまいます。
28歳という若さで亡くなったシーレですが、彼の残したおよそ300点の作品と3000点の素描は、今でも多くの人々に見られ親しまれています。
〜今回の探索スポット!!〜
今回紹介した作品は以下の場所で見ることができます。
『裸の自画像』
『裸でしゃがむ自画像』
▶︎アルベルティーナ美術館 Albertinaplatz 1, 1010 Wien, オーストリア
『口を開けた灰色のヌードの自画像』
『ヴァリの肖像画』
▶︎レオポルド美術館 Museumsplatz 1, 1070 Wien, オーストリア
『ひまわり』
▶︎東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館
〒160-8338 東京都新宿区西新宿1-26-1 損保ジャパン日本興亜本社ビル42階
『ネヴァー・モア』
▶︎コートールド美術館 Somerset House, Strand, London WC2R 0RN イギリス
『叫び』
▶︎オスロ国立美術館 Universitetsgata 13, 0164 Oslo, ノルウェー
『3人の花嫁』
▶︎クレラ・ミュラー美術館 Houtkampweg 6, 6731 AW Otterlo, オランダ
『生の疲れ』
▶︎ノイエ・ピナコテーク Barer Str. 27, 80333 München, ドイツ
『抱擁』
▶︎オーストリア・ギャラリー Prinz Eugen-Straße 27, 1030 Wien, オーストリア
『紫の靴下を履いて座る女性』は個人蔵です。
今回はここまでとさせてもらいます!
お読みいただきありがとうございました!
ではではまた今度〜!
参考図書
『世界美術家大全』
『ART SINCE 1900(図鑑1900年以後の芸術)』
参考記事