美術探索隊!!〜ウィーン分離派前編〜
時代には芸術を
芸術には自由を
第1回
どうもこんにちは。塚原正太郎です。
さて早速ですが、今回紹介する作家は.....
ドン!!
グスタフ・クリムトです!!
〜代表作『接吻』〜
クリムトと聞いたらまず初めに『接吻』を思い浮かべる方が多いと思います。
この画風はクリムト独特のものですが、これには恐らく、エジプト美術やビザンティン美術、琳派などの影響があると思われます。
エジプト美術
ビザンティン美術
平坦で装飾的な画面、モザイクやテンペラ、金箔や紋様、様々なものを学び吸収した上で、クリムトは独自の画風を築き上げたのでしょう。
また『接吻』は、繊細に描かれた手の仕草、隠れて見えない男の表情、男女の周りを取り巻く金色の物体(雲?ローブ?)によって、さらけ出された感情を表現したというより、愛やエロティシズムなどの“象徴”を暗示的に描いたといえます。
ひとくちメモ
エジプト美術:エジプト美術は当時の厳格な階級社会を反映しており、例えば地位の高さに比例して人物が大きく描かれたり、地位の低い人物は肌の露出を多くして描かれたりと、様々な決まりごとがありました。およそ3000年もの間その様式は続いたそうです。
ビザンティン美術:ビザンティン美術は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルで発展した美術体系です。モザイク画やフレスコ画、浮彫彫刻によるキリスト教信仰及び古代ローマの様式的な描写が特徴です。
琳派:『風神雷神図屏風』『燕子花図屏風』『紅白梅図屏風』などお馴染みの作品が多い琳派は、背景に金銀箔を用いたり、大胆な構図を駆使したりと、きらびやかで壮大な画風が特徴です。
〜世紀末ウィーン〜
さて、クリムトはどのような生涯を送ったのでしょうか、当時の出来事も交えつつ見ていきましょう。
1862 グスタフ・クリムト生誕。
1883 美術工芸学校を卒業する。
1886〜88 市立劇場の天井画を手がける。
1891 美術史博物館の装飾を手がける。
1894 校舎を新設したウィーン大学が3点の天井画(それぞれ“哲学”“医学”“法学”というテーマ)をクリムトに依頼する。
1897〜98 クリムトを含む19人の美術家が『ウィーン分離派会館』を建てる。
1899 ジークムント・フロイトが『夢解釈』を発表する。
1900〜01 クリムトが『哲学』を公開するも、あまりにも気味の悪い絵だという理由で受け取りを拒否する。それに反発するように『医学』を続けて公開するが、同様の理由でクリムトはさらなる非難を受ける。
1907 『法学』を含め3点が完成したものの、結局クリムトからこの依頼を断る。以降、クリムトは公共芸術との関わりを断ち、アヴァンギャルドの舞台からは撤退して、上流階級の人々の肖像画を中心に制作を行う。
1918 グスタフ・クリムト死去
ここで重要となるのは“ウィーン分離派”による先進的な芸術活動、そしてフロイトによる精神分析学の発達です。
ひとくちメモ
アヴァンギャルド:非常に先進的で、時代の主流よりも先をいっているため、公的機関とは対立するような芸術のことです。日本語では「前衛」などと訳されます。
〜ウィーン分離派〜
1890年代ドイツでは、美術の規範とされるアカデミーから離れ、革新的な表現・新しい理念の追求を目指し“分離派(セセッション)”という芸術運動が発足します。ミュンヘン分離派(1892年)、ウィーン分離派(1897年)、ベルリン分離派(1899年)とあるのですが、クリムトを中心として結成されたのがウィーン分離派です。そこには建築家であるヨーゼフ・マリア・オルブリッヒやヨーゼフ・ホフマンも参加しており、彼らの設計によって『ウィーン分離派会館』が発足からほどなくして建てられます。
会館の入り口上部には「時代には芸術を、芸術には自由を」といったモットーが掲げられ、またオルブリッヒは「芸術を愛する人々の避難所」としてこの会館を設計したことから、アカデミーとは対立するものの、それはあくまで個人の表現・自律的な表現を確保するため、というウィーン分離派の信条がうかがえます。
さて、クリムトは1894年に“医学”“哲学”“法学”というテーマで天井画の依頼をウィーン大学から受けます。
・混沌とした空間の中で絡み合う肉体、啓蒙的に光が闇を照らすのではなく、闇が光を覆い尽くすように描かれています。合理主義的な哲学に対するクリムトの疑問がうかがえます。
・死体や骸骨など“死”を直接的に示すモチーフが多く描かれています。癒しや救いとしての医学ではなく、生と死が一体となったものとして医学というテーマをクリムトは扱ったのでしょう。
・三人の女に囲まれた男がタコの触手に縛られており、タコの口がちょうど男の股の位置にあります。このことから、法学、つまり罰とは去勢されることだとクリムトは解釈したのでしょう。
これらの作品を手がけていた時期、クリムトはすでに分離派と深い関わりがありました。大学側は大衆の規範となるような作品を期待していたため、そこからかけ離れたクリムトの作品を非難し、受け取りを拒否します。分離派とアカデミー、もとい分離派と公共芸術では、目指していたものに大きな違いがあったということを、この一連の出来事は象徴しています。
〜精神分析学と美術〜
ウィーン分離派と時代を同じくして、フロイトによる精神分析学が発展を遂げます。フロイトと分離派に直接的な関わりこそありませんでしたが、両者に共通するようなことがらは多く見受けられます。
フロイトが1898年に出版した『夢解釈』では「抑圧された本能や無意識がもつ欲望の解放」についてが語られ、この中で“夢”は「解放を望む欲望とそれを抑圧しようとする葛藤をイメージ化したもの」であると解釈されています。
解放と抑圧、解放を表現として捉えるならば、抑圧された欲望を絵画によって表現(解放)したクリムトのように、分離派と精神分析学の密かな結びつきを理解できます。
また、フロイトは「エス」「超自我」「自我」といった考えを提唱しました。それぞれ簡単に記すと、
エス:本能や欲望のこと
超自我:道徳的、社会的に適切な行動をするよう促すもの
となります。
クリムトの絵画は、夢や空想など主観的・個人的な体験に基づいたものが多く、そのような私的な表現は当時の公共芸術とはかけ離れていました。権威であるアカデミーや国家との対立、そこに対する葛藤といった点で、精神分析学とのさらなる関連性を見いだすことができます。
精神分析学と美術は今日に至るまで様々なかたちで関わりあっていますが、ウィーン分離派とフロイトとの関係はそのはじまりといえるかもしれません。
〜今回の探索スポット!!〜
今回紹介した作品は次の場所で見ることができます。
『接吻』
▶︎オーストリア・ギャラリー Prinz Eugen-Straße 27, 1030 Wien, オーストリア
『死者の書』
▶︎ 大英博物 Great Russell St, Bloomsbury, London WC1B 3DG イギリス
『ユスティアヌス帝、主教マクシミアヌスと従者たち』
▶︎サン・ヴィターレ聖堂 Via San Vitale, 17, 48121 Ravenna RA, イタリア
『風神雷神図』
▶︎建仁寺 〒605-0811 京都府京都市東山区小松町584
『ウィーン分離派会館』
『ベートーヴェン・フリーズ』
▶︎ウィーン分離派会館 地下展示室 Friedrichstraße 12, 1010 Wien, オーストリア
『哲学』『医学』『法学』は1945年に焼失。白黒写真と習作のみが現存しています。
さて、今回はここまでとさせてもらいます!
ではではさようなら〜!
参考図書
『世界美術家大全』
『ART SINCE 1900(図鑑1900年以後の芸術)』
参考記事
精神分析とは?フロイトの心の理論の仕組み、対象とやり方、実施場所を説明します | LITALICO仕事ナビ