美術探索隊!!“近代彫刻の夜明け”〜ロダンとマティスの出会い後編〜
正確性は真実ではない
第5回
どうもこんにちは。塚原正太郎です。
作品制作で悪戦苦闘を強いられていたので、久々のブログ更新となります(汗)
さてさて、前回の記事では“ロダンとマティスの出会い前編”ということで、近代美術史においてロダンがどのような役目を果たしたのかを見ていきました。
▲前編の記事はこちらから
今回はその続きで、マティスがロダンの彫刻に対してどのような反応を示したのか、ロダン以降の彫刻史の流れはどのようなものだったのか、ということを中心に話を進めていこうと思います。
それでは参りましょう!!
〜ロダンの彫刻・マティスの彫刻〜
まずはじめに、ロダンとマティスが出会った時点での両者の彫刻の特徴を比較して見ていきましょう。
ロダンの彫刻
『歩く人』は前回の記事でも取り上げましたが、ロダンの“私的な側面”をもつ作品であり、制作の痕跡が表面に残されています。また、この作品は『洗礼者ヨハネ』の習作として作られたもので、こちらは頭部と四肢がつけられた状態となっており、1900年の回顧展ではふたつ並べて展示がされていました。
美術批評家のレオ・スタインバーグは『歩く人』について「いまにも打撃を繰り出そうとするボクサー」のようだと指摘しており、確かにまさにこれから動き出そうとするエネルギーのようなものが見てとれます。
マティスの彫刻
一方でマティスの彫刻はいたって静かな状態です。『農奴』の周囲を巡る曲がった輪郭線、ある運動の流れを認識することはできますが、すねや頭部など所々でその流れは一旦停止しています。このことから『農奴』は周囲の空間に延長を見せることはなく、ひとつの物体として自律していることが分かります。
さて、ロダンが“動的”でマティスが“静的”というような位置付けをここでは行いましたが、両者が対極の関係にあるというわけではありません。むしろマティスは『歩く人』と同じモデルを『農奴』を制作する際に雇い、ほぼ同じポーズをとらせていたことから、彼がロダンの彫刻に追随するかたちで、自身の作品について探究していたことが分かります。さらにマティスはロダンの“私的な側面”に大きく触発されており、制作の痕跡を表面に残すことを存分に取り入れています。
ただ、マティスの『農奴』におけるそのような試みはいささか過剰であったようで、どちらかというとメダルド・ロッソの様式に近づいています。
ロッソの彫刻
ロッソはロダンと同時代に活躍したイタリアの彫刻家です。一瞬の表情や姿を切り取り、周囲の空間に溶け込むかのような彼の作品は、しばしば“印象主義的彫刻”と称されます。
また彼は「彫刻とは芸術家の意図した効果に従って、ある一定の距離から眺められるように作られる」と考えており、いくつもの視点から見られるいわゆる“彫刻的”な鑑賞のされ方ではなく、ある単一の視点から見られる“絵画的”な見方を想定して制作をしていました。
マティスもこういった様式を『農奴』の制作を通して探りましたが、人体像の統合性が失われることは彼の意図するところでなかったため、最終的にはこれを拒絶することになります。
〜マティスの反発/当時の彫刻史の流れ〜
マティスはロダンの“私的な側面”に影響を受けましたが、彼は必ずしもロダンのすべてに賛同していたわけではありませんでした。そのことについて、マティスが自身の体験や芸術観についてを記した『画家ノート』の一文を引用して見ていきたいと思います。
「どうにも理解できなかったのは、ロダンが『聖ヨハネ』を制作しているときに、像の手を切り落として木釘に差し込むなんていうやり方を採っていたことでした。その手を独立した細部として作り込んでいた、どうやら彼自身の左手に持って、でなければともかく全体とは切り離した状態で、作り込んでいたのです。それから像の腕の先端(に挿してあった別の手)とすげ替えて、あとは全般的な動勢との関係を見ながら、どういう向きがいいかを探っていた。」
このようにマティスは、ロダンの断片を継いで全体を表すという制作過程に難色を示していました。
「一方わたし自身はというと、その時点ですでに全般的な組み立てしか見ないようになっていた。説明的な細部のかわりに、生命力があり示唆に富んだ綜合を目指すようになっていたのです。」
ここで、マティスが人体像の全体性や統合性をはじめから捉えることを重視していたのが明かされます。
また、このときマティスはアントワーヌ・ルイ・バリーの作品(バリーは前回の記事でも取り上げた通り、ロダンの師匠にあたる人物であり、解剖学的な正確さに裏打ちされた緻密な表現を特徴としています)の模写にも取り組んでいました。バリーの模写という経験はマティスにとって、彫刻を知るきっかっけであったと同時に、自身が“写実主義者”でなく、解剖学的な正確さに一切関心を持てないことに気づいた瞬間でもありました。
マティスが人体像の全体性を重視していたこと、解剖学的な正確さには関心がなかったこと、主にこのふたつがロダンと異なる点になります。
さて、先ほど挙げた“いくつかの断片を統合して全体を表す”というロダンの手法ですが、これはのちにピカソのキュビズムの登場へと繋がっていきます。ここで一旦、ロダン以降の彫刻家たちが上記の性質についてどのように取り組んでいたのかをまとめていこうと思います。
人体像の全体性を重視した彫刻家
彼らもマティスと同様に人体像の全体性を重視しています。しかし、ロダンやマティスとは反対に、制作の痕跡を一切なくすことを選んでいます。またモチーフのほとんどが女性ヌードという伝統的なもので、アカデミズム的な作風と言えるでしょう。
キュビズム的な手法を用いた彫刻家
彼らはロダンの“いくつかの断片を統合して全体を表す”という手法を用いています。ただ、ここでもマイヨールやレムブルックと同様に制作の痕跡は表面に残されてはいません。
このようなかたちでロダン以降の彫刻家たちは“人体像の全体性”について取り組んでいたのですが、では、上に挙げた作品たちとマティスの作品との違いをもっとも決定づけるものとは何でしょうか。そのことについて次の項目で探っていきたいと思います。
〜彫刻を見るときの視点について〜
両者にどのような違いがあるのかを比較する際、アードルフ・フォン・ヒルデブラントの理論がひとつの基準となります。
ヒルデブラントとは世紀末ドイツに活躍した彫刻家であり、浮彫りの機能や彫刻の面と奥行きなど、彫刻作品における視覚効果に関する理論を展開した人物です。
ヒルデブラントの浮彫り彫刻
ヒルデブラントの丸彫り彫刻
彼の理論のうち「あらゆる彫刻はレリーフのようになっているべきだ」というものがあるのですが、これはつまり、彫刻はある視点から見たときに“近景・中景・遠景”の距離による景観の違いを把握できるように作られるべきだ、といったことを意味します。
こと彫刻作品においては、その周囲に果てしなく広がる空間との関係が常について回るものですが、ヒルデブラントの理論を用いれば彫刻の周りに一定の枠組みを与えることができるため、そのような事情を一切気にする必要がなくなります。
マイヨールやリプシッツなど、先ほど挙げた作品もこの理論に準拠しており、ある決まった視点から“近景・中景・遠景”を読み取ることを前提としています。
では、そのような点においてマティスはどうでしょうか。彼は『農奴』を制作したのちに、『背中』と題した4つのシリーズを制作するのですが、これらの作品を見るとマティスと上記の理論との間にある違いがはっきりと理解できます。
マティスの浮彫り彫刻
『背中1』は壁に人物がもたれかかっているように見ることができます。この段階ではまだ背景の壁が仮想の奥行きとして機能しており、視界に入らない人体の構造も捉えることができるため、ヒルデブラントの理論ともおおよそ合致しています。
『背中2』は背景と人物の処理の仕方が同一化していき、奥行きというよりも壁が人体の形に隆起しているように見えます。
『背中3』では人物と壁の一体化が著しく進み、人体の高さと壁の高さがほとんど一致した状態になります。
『背中4』になるともはや人物と奥行きは完全に消失し、単なる凹凸を持った壁といった状態になります。
マティスもまさに“レリーフ”そのものを制作したわけですが、シリーズが進むごとにヒルデブラントの理論とはかけ離れていきます。特に『背中2』から『背中3』『背中4』にかけてその様相は顕著となり、鑑賞者は奥行きを把握することができず、その視線は壁を越えた仮想の空間へと及ぶことができなくなります。
つまり見えない部分の想定が不可能である、といったことがマティスの彫刻作品の特徴を決定づける大きな要素となるのです。
ひとくちメモ
浮彫り:浮彫りとは、平面あるいは曲面の一部が彫像として突出するように彫り込まれた彫刻のことです。レリーフとも呼ばれるのですが、その語源はイタリア語で「高くする」という意味をもつ「リレヴァーレ」に由来します。突出の度合いによってそれぞれ名称が異なり、突出が小さいものは浅浮彫り、高いものは高浮彫りとされています。
丸彫り:丸彫りとは、対象を完全に三次元で構成して全方向から見ることのできる彫刻のことです。全ての典型的な彫刻作品は丸彫りに該当します。
〜近代彫刻の夜明け〜
ここまでマティスの彫刻における特徴、“物体として自律している”“人体像の全体性・統合性を重視している”“仮想空間の想定が不可能である”などを様々なものと比較しながら見ていきました。そしてこれら全ての特徴を包括したものとして、マティスの『蛇女』という作品があります。
マティスの『蛇女』
この作品はいくつもの曲線や直線が折り重なり、それが全体となって立ち現われています。しかし、それ故にわれわれ鑑賞者は『蛇女』の全体像を把握することができなくなるのです。小さな頭部に対してあまりにも大きな髪の塊、そり曲がった胴体と両腕と左脚、地面に垂直になっている右脚と支柱、これら全ては確かにひとつのまとまりの中にあるのですが、どこで見てもその構造の印象が定まることはありません。
これはたとえばジャンボローニャの作品なども似たような現象が見受けられます。
ジャンボローニャの彫刻
ただしこの『サビニの女の掠奪』はやや歪曲しているものの、人体構造の正確さに基づいています。そのため、最初は全体像を把握することができませんが、何度か周囲を回って見るうちにどのようなことが起こっているのかを完全に理解できるのです。
その点『蛇女』は人体構造の正確さをはじめから無視しています。つまり、どのような人体構造なのかはっきりとした推測が立たず、永遠と全体像が分からない状態であるということになります。
十分に対象を見られない、認知とはそもそも不完全なものである。そういった不完全性に気づくことこそが近代美術の出発であり、『蛇女』はそのはじまりを告げる作品だといえるかもしれません。
〜今回の探索スポット!!〜
今回ご紹介した作品は以下の場所で見ることができます。
オーギュスト・ロダン『歩く人』
▶︎ロダン美術館 77 Rue de Varenne, 75007 Paris, フランス
オーギュスト・ロダン『洗礼者ヨハネ』
▶︎大原美術館 〒710-0046 岡山県倉敷市中央1丁目1−15
▶︎ニューヨーク近代美術館 11 W 53rd St, New York, NY 10019 アメリカ合衆国
メダルド・ロッソ『黄金時代』
▶︎ナッシャー彫刻センター 2001 Flora St, Dallas, TX 75201 アメリカ合衆国
▶︎ジャニック・ヤン・クルーガーコレクション
アリスティード・マイヨール『地中海偶像』
▶︎チュイルリー庭園 Place de la Concorde, 75001 Paris, フランス
ヴィルヘルム・レムブルック『膝立ちの女性』
▶︎ニューヨーク近代美術館 11 W 53rd St, New York, NY 10019 アメリカ合衆国
ジャック・リプシッツ『ギターと座る男』
▶︎テート・ブリテン Millbank, Westminster, London SW1P 4RG イギリス
レイモン・デュシャン・ヴィロン『大きな馬』
▶︎テート・ブリテン Millbank, Westminster, London SW1P 4RG イギリス
アンリ・ローランス『秋』
▶︎テート・ブリテン Millbank, Westminster, London SW1P 4RG イギリス
ジェイコブ・エプスタイン『金属の胴体による削岩機』
▶︎テート・ブリテン Millbank, Westminster, London SW1P 4RG イギリス
アンリ・ゴーディエ・ブルゼスカ『赤い石のダンサー』
▶︎テート・ブリテン Millbank, Westminster, London SW1P 4RG イギリス
アーデルフ・フォン・ヒルデブラント『別れ』
▶︎ノイエ・ピナコテーク Barer Str. 29, 80799 München, ドイツ
アーデルフ・フォン・ヒルデブラント『アダムとイブ』
▶︎ノイエ・ピナコテーク Barer Str. 29, 80799 München, ドイツ
アンリ・マティス『背中1』『背中2』『背中3』『背中4』
▶︎テート・ブリテン Millbank, Westminster, London SW1P 4RG イギリス
アンリ・マティス『蛇女』
▶︎ニューヨーク近代美術館 11 W 53rd St, New York, NY 10019 アメリカ合衆国
▶︎ロッジア・ディ・ランツィ Piazza della Signoria, 50121 Firenze FI, イタリア
お読みいただきありがとうございました!
ではでは〜
参考図書
『世界美術家大全』
『ART SINCE 1900(図鑑1900年以後の芸術)』
美術探索隊!!“近代彫刻の夜明け”〜ロダンとマティスの出会い前編〜
芸術に独創はいらない
生命が要る
第4回
どうもこんにちは。塚原正太郎です。
以前の記事では1800年代末期から1900年代初頭、つまりは世紀末から20世紀の幕開けに至るまでの時代を“ウィーン分離派と精神分析学”といった視点から見ていきました。
▲ウィーン分離派前編の記事はこちらから
▲ウィーン分離派中編の記事はこちらから
▲ウィーン分離派後編の記事はこちらから
さて今回は、20世紀が今まさに始まろうとしていたころのフランスを舞台にして“ロダンとマティスの出会い”という、近代美術史のひとつの転機となるようなテーマを中心に、前編と後編の2回にわたり話を進めていこうと思います。
それでは参りましょう!!
〜“近代彫刻の父”オーギュスト・ロダン〜
まずは“ロダンとマティスの出会い”についてを書く前に、ロダンがどのような作家であったのかを見ていきましょう。
ロダンの代表作には『地獄の門』や『考える人』、『接吻』などがあります。
『地獄の門』はイタリアの詩人であるダンテの『神曲』から着想を得て作られたもので、『考える人』はそれ単体の作品としても知られていますが、もともとは『地獄の門』頂上の一部分 にあたります。
『接吻』も同様に『地獄の門』の一部として構想されていましたが、“性愛”や“幸福”を表現しているこの作品は、“破滅”を主題とした『地獄の門』にそぐわないということで、最終的には独立した作品となっています。
これらの作品からも見てとれるように、ロダンは人間の性愛や感情、生命といった大きなテーマを、その優れた人物表現を通じて具現化した作家だといえます。
また彼は、自身の作品を広く普及させることを望んでいたため、自作の原型をもとに複数の鋳造をしていました。『考える人』や『接吻』なども様々なバリエーションがありますが、中にはロダンが一度も触れていないようなものもあったりします。
ひとくちメモ
ダンテ『神曲』:13世紀から14世紀にかけて活躍したイタリアの詩人ダンテは「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の3部から成る『神曲』という長編叙事詩を書き上げます。『神曲』は美術の分野にも多大な影響を与えており、ミケランジェロの『最後の審判』やロダンの『地獄の門』などが代表例として挙げられます。
〜ロダンの生涯について〜
ロダンはしばしば“近代彫刻の父”と称されるほど、西洋の彫刻史において1つの大きな分岐点を担うような作家です。
ここでは、ロダンが“近代彫刻の父”と呼ばれるわけを、彼の生涯を振り返りながら見ていきたいと思います。
1840 オーギュスト・ロダン生誕
1854 地元の工芸学校へと入学する。
1857〜59 工芸学校を退学し、国立美術学校への入学を志願するも不合格となる。翌年、翌々年も入学を試みるが、結果は同様に不合格だった。この経験は、美術の道を進もうとするロダンに挫折感をもたらした。
1860 国立美術学校への入学を諦めたロダンは、室内装飾の職人として仕事を始める。
1863 ロダンの姉であるマリアが亡くなる。姉の死に大きなショックを受けたロダンは修道院へと入会して、美術ではなく神学の道を志そうとした。しかし、ロダンの指導を担当していた司教は、彼が修道士に不向きであると判断して、ロダンに美術を続けるよう諭した。修道院から離れたロダンは、動物彫刻家であるアントワーヌ・ルイ・バリーのもとへ弟子入りをする。ロダンはここで彫刻の基礎的な部分など多くの学びを得て、再び美術の道を進もうと志す。
▲解剖学にも精通していたバリーは、緻密な表現をもつ動物彫刻家として名を馳せていました。確かな描写力に基づいたバリーの作品は、ロダンにも大きな影響を与えることになります。
1864 裁縫職人であるローズと出会い子供を授かる。ロダンとローズが結婚したのは晩年になるものの、彼女はロダンを支える生涯のパートナーとなる。またこの時、室内装飾の仕事をロダンは再開する。
1870 普仏戦争の影響により家計の苦しい状況にあったロダンは、家族とともにベルギーへと移住する。
1875 節約を続け貯蓄を確保したロダンは、イタリアへと旅行する。そこで見たドナテッロやミケランジェロの作品から多大な影響を受けたロダンは、ベルギー帰国後に、十数年ぶりの彫刻制作を再開する。
1877〜79 ロダンが『青銅時代』をブリュッセルの展覧会にて発表する。それが余りにもリアルなものであったため「実際の人間から型を取ったのではないか」と周囲からは疑われる。これに憤慨したロダンはその2年後、人間よりもひとまわり大きなサイズの彫刻を制作し発表したので、そのような疑いは完全になくなる。これを皮切りに、ロダンの彫刻家としての実力が認められ、ロダンの名が一躍知られるようになる。
1880 当時建設予定中であった国立美術館が、そこに設置するためのモニュメントの制作をロダンへと依頼する。そこで彼はダンテの『神曲』から着想を得て『地獄の門』の制作にとりかかる。またこの時期、ロダンは自身の教え子であり、彫刻家であるカミーユ・クローデルと出会い、ふたりは次第に恋愛関係へと進展していく。ロダン、ローズ、カミーユの三角関係は十数年も続いたが、最終的にロダンはローズと共に生きることを決め、ロダンとカミーユの関係は破綻を迎える。
▲この『ワルツ』は、カミーユとロダンとの恋愛をテーマにした作品です。カミーユは、ロダンを含む周囲の人々からその実力を認められていましたが、ロダンとの破局後、彼女は一切の制作活動を放棄します。
1884 フランスのカレー市が、14世紀の市の英雄6人を記念した「カレーの市民」の制作をロダンに依頼する。
1887 もともと『地獄の門』の一部として構想されていた『接吻』を、単独の作品として発表する。
1888 美術館の建設計画が白紙に戻り、それに伴って『地獄の門』の制作中止命令がロダンのもとへ届く。しかし彼はそれを断り、自腹で金を払って『地獄の門』を手元に戻す。以降ロダンは『地獄の門』を他ならぬ自分のための作品として制作を続ける。
1889 『地獄の門』を覗き込む男の彫刻を、単独の作品として発表する。これがのちの『考える人』である。
1898 フランスの文芸家協会から依頼を受けていた『バルザック記念像』を発表する。しかし、これまでの高い評価に反して、この作品に関しては大きなスキャンダルを起こし、非難を受けることになる。
1900 アンリ・マティスがパリにあるロダンのアトリエへと訪れる。このときロダンは、パリの万国博覧会にて自作の回顧展を開いており、彫刻家としての地位を確かなものにしていた。
1917 オーギュスト・ロダン死去。長きにわたって制作され続けた『地獄の門』は、ついに完成することはなかった。
〜ふたつの側面から見るロダンの彫刻〜
さて、ロダンの生涯をざっくりと振り返ってきましたが、彼の生涯における作品群は大きく“公的な側面”と“私的な側面”のふたつの特徴に分けられます。
まずは“公的な作品”について見ていきましょう。
当時、西洋の伝統では「制作の痕跡をすべて消去して、彫刻に生命を宿す」ことが彫刻家の目標とされており『ピュグマリオン神話』のように「あたかも生きているかのような彫刻」が理想として求められていました。
1875年のイタリア旅行において、ドナテッロやミケランジェロといったルネサンス期の巨匠たちから多大な影響を受けたロダンは、こういった伝統を全面的に継承しました。
初期ルネサンス
盛期ルネサンス
“公的な側面”をもつロダンの作品
その一方でロダンの“私的な側面”は、 制作の痕跡を表面に残すことに重きがおかれ、実際のモデルとは異なるような形をとっています。
“私的な側面”をもつロダンの作品
▲一見すると傷跡のようなものが随所に見られます。
▲額などに制作の痕跡が見られます。
ロダンはこれらの作品をブロンズで鋳造する際も、そのままの形で保存していました。このことから彼は、彫刻制作上の様々なプロセスも一つの言語である、と考えていたのが分かります。
当時、こういった“私的な側面”は西洋彫刻史と相反するもので“公的な側面”に比べると、認められるのに長い時間を要しました。
しかしながら、このロダンの“私的な側面”こそが彫刻史を切り拓き、近代彫刻の幕開けを担う重要な役割を果たすことになるのです。
ひとくちメモ
ピュグマリオン神話:ピュグマリオンとはギリシャ神話に登場する王様の名前です。現実の女性に失望していた彼は、自分の理想とする女性像を彫刻に表しまが、出来上がった彫刻があまりにも美しかったため、ピュグマリオンは彫刻に恋をしてしまいます。それから彼はいつも彼女のことを想い続けますが、やはり相手は彫刻、それは叶わぬ恋でした。しかし、愛の女神アフロディーテがこれを哀れに思い、彫刻に命を授け、なんと人間にしてしまったのです。そして2人はめでたく結婚をし、子供まで授かりました。この一連の話を『ピュグマリオン神話』といい、そこから「人が心から望んだ方に結果が転ぶ」といった意味をもつ「ピグマリオン効果」という心理学の名称が生まれました。
ルネサンス:1300年から1500年にかけて、イタリア美術において新しいアイディアが次々と開花し、その後の西洋美術すべての発展に影響を与えた時代のことです。ルネサンスはフランス語で「再生」を意味します。
ロダンについてあらかた書いてきたところで、話は“ロダンとマティスの出会い”へと移ります。
マティスがちょうど画家を志していた1900年、ロダンはすでに彫刻家としてかなりの名声を獲得していました。そんなさなか、ロダンの助手を務めていたマティスの友人が、ロダンのアトリエに行くよう彼に勧めます。ロダンの彫刻に好奇心を抱いていたマティスは、これはいい機会だと思い、数枚のスケッチを持参してロダンに会いにいくことを決めました。
アンリ・マティスは画家としての功績があまりにも有名ですが、彼の彫刻作品もまた、近代美術史において見逃せないものになっています。
後編では、ロダンと出会ったあとのマティスについてや、ロダン以降の彫刻史の流れについて取り上げようと思います。
お読みいただきありがとうございました!!
それではまた今度!!
〜今回の探索スポット!!〜
今回の記事で紹介した作品は、以下の場所で見ることができます。
また、ロダンの彫刻作品に関しては国内外のあらゆる場所に点在しているため、ここでは主に国内にあるものを掲載していきます。
『地獄の門』『考える人』『接吻』『青銅時代』『カレーの市民』
▶︎国立西洋美術館 〒110-0007 東京都台東区上野公園7−7
(国立西洋美術館にはロダンの作品が多数所蔵されています。ロダンを詳しく知りたいという方にオススメの美術館です!!)
『蛇を踏みつぶすライオン』
▶︎ルーブル美術館 Rue de Rivoli, 75001 Paris, フランス
『ワルツ』
▶︎カミーユ・クローデル美術館 10 Rue Gustave Flaubert, 10400 Nogent-sur-Seine, フランス
『ダヴィデ』
▶︎バルジェロ美術館 Via del Proconsolo, 4, 50122 Firenze FI, イタリア
『ピエタ』
▶︎サン・ピエトロ寺院 Piazza San Pietro, 00120 Città del Vaticano, バチカン市国
『歩く人』『ボードレール像』
▶︎ロダン美術館 77 Rue de Varenne, 75007 Paris, フランス
参考図書
『世界美術家大全』
『ART SINCE 1900(図鑑1900以後の芸術)』
参考記事
美術探索隊!!〜ウィーン分離派後編〜
私は肖像画を描けるので描く
第3回
どうもこんにちは。塚原正太郎です。
前回、前々回の記事ではクリムトとシーレを取り上げ、ウィーン分離派とそこに続く世代という大まかな流れを見ていきました。
▲クリムトの記事はこちらから
▲シーレの記事はこちらから
そして今回は彼らと同時代に活躍したオーストリア人の画家を紹介します。
その名も・・・
ドン!!
オスカー・ココシュカです!!
〜ココシュカの画風〜
さて早速ですが、ココシュカの作品の特徴についてざっくりと見ていきましょう。
このように力強く豊かな色彩で描かれた人物画がココシュカの作品でもとりわけ有名です。
その画風から彼はしばしば表現主義に分類されますが、ウィーン分離派などの同時代の芸術運動には参加しておらず、独自の活動で自身のスタイルを貫きました。
たとえば、クリムトやシーレがデリケートで細やかな線で人物を描いたのに対して、ココシュカは荒々しく引っかいたような筆致で人物を描く、といったように人物の描写をとってみても彼の独自性がうかがえます。
〜ココシュカの生涯〜
どのグループにも属さず独自で活動を続けてきたココシュカは、どのような人生を送ったのでしょうか。まずは彼の略歴から見ていきましょう。
1886 オスカー・ココシュカ生誕
1904 かつてクリムトやシーレも在学していた美術工芸学校へと進学する。
1908〜09 『人殺し、女たちの希望』という演劇を上映するが、それがあまりに過激な内容だったので退学させられてしまう。
1910 芸術雑誌『デア・シュトゥルム』で表紙を手がけるなど、装飾美術の仕事を中心に活動する。
1912 作曲家グスタフ・マーラーの未亡人であるアルマ・マーラーと恋愛関係をもつ。
1913〜14 アルマとともにいるココシュカ自身をモチーフにした代表作『風の花嫁』を描く。
1915 ココシュカは第一次世界大戦のため従軍し、そこで頭部に重傷を負う。その間アルマは別の男性と結婚をして、ココシュカのもとから離れてしまう。
1917 従軍を終えたココシュカは、大戦での負傷とアルマとの失恋によるショックでしばらくの活動を控える。
1918 アルマのことを忘れられないココシュカは、彼女と等身大の人形を作るよう女性作家のヘルミーネ・モースに依頼する。出来上がった人形とともにココシュカはしばらく生活を送る。
1920〜30 ヨーロッパや北アフリカ、中東にかけての長きにわたる放浪生活を送り、そこで見た風景を中心に制作する。
1931〜35 ウィーンに戻ったココシュカだが、ナチス政権の圧力によってプラハへと移住することになる。
1937〜38 ナチス政権がココシュカの作品を「退廃芸術」と非難し厳しく取り締まる。ココシュカはイギリスへと亡命する。
1938〜53 スコットランドに住んでいたココシュカはそこでできた友人や地方風景などを描き、多数の作品を制作する。
1953 ココシュカはスイスへと移住し、残りの生涯をここで過ごす。また、ザルツブルクの美術セミナーで教鞭をとるなど、後進の育成にあたる。
1960 エラスムス賞を受賞する。
1980 オスカー・ココシュカ死去
ココシュカが手がけた『人殺し、女たちの希望』のポスター
ココシュカが放浪生活中に描いた風景画
ひとくちメモ
デア・シュトゥルム:1912年から32年にかけて、ドイツにおける国内外の近代美術を推し進めるなかで、大きな影響を及ぼした芸術雑誌および画廊のことです。ちなみに「シュトゥルム」とはドイツ語で「嵐」という意味をもちます。
退廃芸術:ナチス政権は古典的な美の規範に即した芸術を推奨し、ドイツ民族のモラルを高めようと試みます。対して、近代美術や前衛美術などは道徳的に堕落したものとみなし「退廃芸術」として、それらの美術を厳しく取り締まりました。
エラスムス賞:ヨーロッパの文化、社会などへの貢献を評価して授与される賞です。1958年に設立されました。
〜アルマとの恋愛/肖像画の変遷〜
1912年、ココシュカはアルマ・マーラーと恋愛関係になり、彼女を度々主題として取り上げます。
しかしながら、執着的で束縛の強いココシュカの性格に嫌気がさしたアルマはココシュカと別れ、他の男性と結婚してしまいます。そうして別れたあと、ココシュカはしばらくの間アルマへの思いにとりつかれ、ついにはアルマと等身大の人形を作り、ともに生活を送ろうと決めました。
さらにココシュカは、その人形をモチーフにした肖像画も制作しています。
つまり彼は人形としての肖像と、それをもとにして描く肖像画という二重の肖像制作を行ったということになります。結局人形は、1922年にココシュカ自身の手によって壊されてしまいますが、この一連の出来事はココシュカの制作に大きな転機をもたらします。
そこで、人形が壊された1922年をひとつの区切りとして、その前後の彼の作品をそれぞれ比較して見ていきましょう。
1922年以前の作品
まずは1922年以前の作品についてです。ここで描かれる人物たちは一見無表情で落ち着いてるようですが、手の描写や周囲の空気感からどこか圧力にさらされたような雰囲気があります。これは単にモデルの姿を描いたというよりも、モデルの内面やそれに対するココシュカの反応が画面上に反映したからだといえます。
1922年以降の作品
続いて1922年以降の作品です。ここで描かれる人物はどれもココシュカ本人によく似ており、たとえば鼻からアゴまでを長くして描かれるなど、モデルの顔立ちに似せるというよりも、ココシュカ自身の容貌の特徴が投影されています。
人形の肖像画においてモデルへの深い感情移入を経験したココシュカは、それ以降、対象と自己を同一視させて肖像画を描くようになりました。
クリムトやシーレは自己の欲望や身体症状に基づいて人物を描きましたが、ココシュカはそこからさらに、自己投影というかたちで人物画という分野を拓いたのです。
〜批評家アドルフ・ロース/世紀末ウィーン総括〜
建築家であり批評家でもあるアドルフ・ロースは、ココシュカの才能をいち早く見抜き、作品の購入などで彼を支援しました。
ロースは徹底した合理主義・純粋主義者であり、ウィーン分離派のもつ装飾性に対しても“排泄的”であるとみなし、過激な言論で反対を示していました。
偶然にもロースが“排泄的”と揶揄したちょうど同時期に、精神分析学者であるフロイトは「性格と肛門愛」に関する論文を発表していました。これは遠からずウィーン分離派の装飾性への理解を促すような内容だったのですが、ロースはそれに共感はしませんでした。
このように世紀末ウィーンはクリムトやシーレ、ココシュカなど表現主義的な自由を主張した画家だけでなく、アドルフ・ロースや批評家のカール・クラウス、また音楽ではアルノルト・シェーンベルク、哲学ではルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインなど、純粋さや厳格な規律に重きをおいた立場の人々もおり、いわゆるモダニズム的な対立のあった時代でした。
ひとくちメモ
「性格と肛門愛」:フロイトは人間の発達段階を5つに分け、そのうちの2段階目にあたるものを「肛門期」と名付けました。幼児期における排泄のコントロールに対する欲求の度合いが、のちに、お金や時間など自分が保持しているものへの執着の度合い、社会の規律や制約を重視する度合いに結びつく、と述べられています。
モダニズム:1880年ごろから1960年代ごろにおける作品や作家、動向などを包括した名称のことです。「近代美術」とも呼ばれます。
〜今回の探索スポット!!〜
今回ご紹介した作品は以下の場所で見ることができます。
『自画像/退廃の画家』
▶︎スコットランド国立近代美術館 75 Belford Rd, Edinburgh EH4 3DR イギリス
『人殺し、女たちの希望』のポスター
▶︎ニューヨーク近代美術館 11 W 53rd St, New York, NY 10019 アメリカ合衆国
『エルサレムの風景』
▶︎デトロイト美術館 5200 Woodward Ave, Detroit, MI 48202 アメリカ合衆国
『アドルフ・マーラーの肖像』
▶︎東京国立近代美術館 〒102-8322 東京都千代田区北の丸公園3−1
『風の花嫁』
▶︎バーゼル市立美術館 St. Alban-Graben 16, 4051 Basel, スイス
『画家と人形』
▶︎ベルリン絵画館 Matthäikirchplatz, 10785 Berlin, ドイツ
『エゴン・ヴェレスの肖像』
▶︎ハッシュホーン美術館 Independence Ave SW &, 7th St SW, Washington, DC 20560 アメリカ合衆国
『トマーシュ・ガリッグ・マサリクの肖像』
▶︎カーネギー美術館 4400 Forbes Ave, Pittsburgh, PA 15213 アメリカ合衆国
『アドルフ・ロースの肖像』
▶︎シャルロッテンブルグ宮殿 Spandauer Damm 10-22, 14059 Berlin, ドイツ
『アルマ・マーラーの人形』(白黒写真)はウィーン応用美術大学に所蔵されています。
『ロッテ・フランツォースの肖像』はフィリップ・コレクションに所蔵されています。
『エミール・G・ビュールレの肖像』はエミール・ビュールレコレクションに所蔵されています。
さて!ウィーン分離派関連は一旦ここで終わりです!
次回はまた別のテーマを取り上げたいと思います!
それではまた今度〜!!
参考図書
『世界美術家大全』
『ART SINCE 1900(図鑑1900以後の芸術)』
参考記事
美術探索隊!!〜ウィーン分離派中編〜
あらゆる者は生きながら死んでいる・・・
第2回
どうもこんにちは。塚原正太郎です。
前回の記事ではグスタフ・クリムト及びウィーン分離派について取り上げましたが、今回の記事ではウィーン分離派に続いた画家について紹介します。
▲前回の記事はこちらからどうぞ
さてさて今回登場していただくのは・・・
ドン!!
エゴン・シーレです!!
〜ねじ曲がる身体/フロイト的解釈〜
シーレの作品はシンプルな背景に単独の人物を描いたものが多いです。緊張感のある輪郭線と素早く塗られた色によって、臨場感と切迫した空気がわれわれ鑑賞者へと伝わってきます。
さて、前回の記事ではクリムトと精神分析学の関連性について書きましたが、今回はシーレと精神分析学の関連性に基づいて、彼の作品の特徴を見ていきたいと思います。
フロイトはクリムトの記事でも挙げたように“夢”や“自我”に関する考えを提唱しましたが、そこからさらに“性的倒錯”や“不安神経症”といった考えへと発展させました。
それぞれ簡単に記すと、
性的倒錯:フロイトは性的倒錯の種類をおよそ2つに分けました。
①性対象倒錯
・絶対的な性対象倒錯:性対象が同性に限られる
・両性的な性対象倒錯:同性も異性も性対象になりうる
・機会的な性対象倒錯:特定の外的条件下において同性が性対象になる
といったように対人における性的倒錯
②性目標倒錯
・身体部位(足や毛髪など)や無生物(衣類や下着など)を性的に利用する
・苦痛を与えたり、苦痛を受けたりすることで快感を感じる
など行為における性的倒錯
不安神経症:本能的な欲求とそれを抑圧しようとするはたらきがお互いに引っ張り合うことで不安は生じます。不安は通常「昇華(欲求をスポーツや創作によって解消すること)」や「合理化(何かしらの理屈をつけて受け入れがたいものを解消すること)」などの防衛機制によって軽減されるのですが、防衛機制が過剰にはたらいたり、機能的にはたらかなかったりした場合、不安は精神的・身体的な不調となって現れます。このような症状を不安神経症といいます。
これらを踏まえてシーレの絵画を見ると、シーレと精神分析学で共通するものが分かりやすいと思います。
まず性的倒錯ですが、これは彼の自画像によく表れています。
性的倒錯の中には、窃視趣味/露出趣味といったものがあり、これは文字通り、排泄など隠されたものをのぞき見る事/自身の性器など隠された部分をさらけ出すことです。
シーレのこの自画像においても、鏡に映った自身の姿を見るシーレ/絵画を通じてその姿を見るわれわれ鑑賞者/そしてそれらを凝視するかのように絵の中から見返してくるシーレ、といった構造が生まれます。この絵画を見たとき鑑賞者はシーレの眼差しと一体化し、あたかもひとりの窃視者として見ているかのようになるといえます。
次に不安神経症についてです。
痩せこけた男の両腕・両足は切断され、体はわずかに非対称でどことなく歪んでおり、目の周辺は暗い隈で囲われ、口は叫んでいるというより、まるで死体のように開かれています。この自画像はまさに不安神経症に苛まれている瞬間をとらえているかのようです。
クリムトは彼自身の欲望に基づいて絵を描きましたが、それに対してシーレはモデルの抑圧を、身体的な症状を通じて表現しました。
〜シーレの生涯〜
では次に、シーレがどのような人生を送ったのかを見ていきましょう。
1890 エゴン・シーレ生誕
1906 クリムトと同様、美術工芸学校に入学するが、工芸よりも絵画を学ぶことを望んだシーレは、美術アカデミーへと進学する。
1909 保守的な美術アカデミーに価値を見出せず退校、クリムトに弟子入りを志願し、独自に活動を始める。またこの時、ゴッホやゴーギャンの回顧展、分離派が開催したムンクやホドラー、トーロップの展覧会に行き、強い影響を受ける。
1911 当時シーレのモデルを務めていた17歳の少女ヴァリと同棲を始めるが、シーレの家に娼婦が出入りしヌードモデルをしていたことが近隣住民に知られ、追い出されるようなかたちで2人は転居する。しかし転居先でも、庭でヌードモデルを描いていたことが近隣住民の不満を買い、再びの転居を余儀なくされる。
1912 未成年者の誘拐・淫行の疑いで、シーレは警察にとらえられ、24日間の拘留を受けることになる。あげくに、性的に露骨な猥褻物であるといった理由で、シーレの素描の多くが焼却されてしまう。
1914 近所に住んでいたエーディトという女性と恋仲になる。このときシーレはヴァリとも関係を持っていたが、エーディトとの結婚を決める。これにショックを受けたヴァリはシーレと別れ、二度と彼の前に姿を見せることはなかった。
1915 シーレとエーディトの結婚式が行われるが、このときシーレはエーディトの姉であるアデーレとも親しく、2人の間には肉体的な関係があった。結婚からほどなくしてシーレは第一次世界大戦による召集を受け、従軍中にシーレは膨大な量の構想を練る。
1918 第49回ウィーン分離派展でシーレは多数の新作を発表する。そこで一躍注目を集め、シーレの画家として成功する人生が始まろうとしたが、妻エーディトが当時流行したスペイン風邪で亡くなる。そしてシーレもそのあとを追うかのようにスペイン風邪によって死去。
〜クリムトとの共通点・相違点〜
1909年、アカデミーから離れたシーレは工芸学校時代の先輩であるクリムトに弟子入りを志願し、クリムトはシーレを快く受け入れます。
すでにアヴァンギャルドの舞台からは撤退したクリムトでしたが「抑圧された欲望を解放する」という精神性はシーレに引き継がれていきます。
シーレはクリムトのことを尊敬していましたが、装飾的な洗練さをもつクリムトの作品には懐疑的であり、ポスト印象主義や象徴主義、表現主義の画家たちから自身の画風を確立するうえでの手がかりを得ようとしました。
ポスト印象主義
ひとくちメモ
ポスト印象主義:1885年から1900年ごろにかけての進歩的な画家を包括してさす言葉です。印象主義以降ということでこの名が付けられていますが、決まった様式は存在せず、あくまで便宜的な呼称です。
表現主義:歪んだ描写や強烈な色彩によって自己の内面を描くことが特徴です。20世紀ドイツ美術の主流のひとつとして挙げられます。
象徴主義:象徴主義は19世紀フランスの詩人、ランボーやボードレールなどのあいだで発足し、多くの画家に影響を与えました。神話や超自然的なものが主なテーマで、異様で謎めいた世界観が特徴です。
〜スキャンダラスな生活〜
シーレはスキャンダルの多い生活を送りましたが、このことは彼の制作にも密接に結びついています。
シーレの描く人物には、彼と性的な関係があった女性が多く登場します。そのため主題も性的なものが多く、また彼は人間の身体や精神を、道徳的な存在というより、動物的な存在とみなしていました。
そういったシーレの態度を当時の保守的な社会は強く非難するのですが、シーレはそれにひるむことなく制作を続けることによって、創造的個性と自己決定に対する自由を主張します。
1918年に開かれた第49回ウィーン分離派展にてシーレの続けてきた画業がようやく認められ、一躍注目を浴びるようになります。しかし画家としての大きな一歩を踏み出したのも束の間、シーレは当時流行していたスペイン風邪によって亡くなってしまいます。
28歳という若さで亡くなったシーレですが、彼の残したおよそ300点の作品と3000点の素描は、今でも多くの人々に見られ親しまれています。
〜今回の探索スポット!!〜
今回紹介した作品は以下の場所で見ることができます。
『裸の自画像』
『裸でしゃがむ自画像』
▶︎アルベルティーナ美術館 Albertinaplatz 1, 1010 Wien, オーストリア
『口を開けた灰色のヌードの自画像』
『ヴァリの肖像画』
▶︎レオポルド美術館 Museumsplatz 1, 1070 Wien, オーストリア
『ひまわり』
▶︎東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館
〒160-8338 東京都新宿区西新宿1-26-1 損保ジャパン日本興亜本社ビル42階
『ネヴァー・モア』
▶︎コートールド美術館 Somerset House, Strand, London WC2R 0RN イギリス
『叫び』
▶︎オスロ国立美術館 Universitetsgata 13, 0164 Oslo, ノルウェー
『3人の花嫁』
▶︎クレラ・ミュラー美術館 Houtkampweg 6, 6731 AW Otterlo, オランダ
『生の疲れ』
▶︎ノイエ・ピナコテーク Barer Str. 27, 80333 München, ドイツ
『抱擁』
▶︎オーストリア・ギャラリー Prinz Eugen-Straße 27, 1030 Wien, オーストリア
『紫の靴下を履いて座る女性』は個人蔵です。
今回はここまでとさせてもらいます!
お読みいただきありがとうございました!
ではではまた今度〜!
参考図書
『世界美術家大全』
『ART SINCE 1900(図鑑1900年以後の芸術)』
参考記事
美術探索隊!!〜ウィーン分離派前編〜
時代には芸術を
芸術には自由を
第1回
どうもこんにちは。塚原正太郎です。
さて早速ですが、今回紹介する作家は.....
ドン!!
グスタフ・クリムトです!!
〜代表作『接吻』〜
クリムトと聞いたらまず初めに『接吻』を思い浮かべる方が多いと思います。
この画風はクリムト独特のものですが、これには恐らく、エジプト美術やビザンティン美術、琳派などの影響があると思われます。
エジプト美術
ビザンティン美術
平坦で装飾的な画面、モザイクやテンペラ、金箔や紋様、様々なものを学び吸収した上で、クリムトは独自の画風を築き上げたのでしょう。
また『接吻』は、繊細に描かれた手の仕草、隠れて見えない男の表情、男女の周りを取り巻く金色の物体(雲?ローブ?)によって、さらけ出された感情を表現したというより、愛やエロティシズムなどの“象徴”を暗示的に描いたといえます。
ひとくちメモ
エジプト美術:エジプト美術は当時の厳格な階級社会を反映しており、例えば地位の高さに比例して人物が大きく描かれたり、地位の低い人物は肌の露出を多くして描かれたりと、様々な決まりごとがありました。およそ3000年もの間その様式は続いたそうです。
ビザンティン美術:ビザンティン美術は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルで発展した美術体系です。モザイク画やフレスコ画、浮彫彫刻によるキリスト教信仰及び古代ローマの様式的な描写が特徴です。
琳派:『風神雷神図屏風』『燕子花図屏風』『紅白梅図屏風』などお馴染みの作品が多い琳派は、背景に金銀箔を用いたり、大胆な構図を駆使したりと、きらびやかで壮大な画風が特徴です。
〜世紀末ウィーン〜
さて、クリムトはどのような生涯を送ったのでしょうか、当時の出来事も交えつつ見ていきましょう。
1862 グスタフ・クリムト生誕。
1883 美術工芸学校を卒業する。
1886〜88 市立劇場の天井画を手がける。
1891 美術史博物館の装飾を手がける。
1894 校舎を新設したウィーン大学が3点の天井画(それぞれ“哲学”“医学”“法学”というテーマ)をクリムトに依頼する。
1897〜98 クリムトを含む19人の美術家が『ウィーン分離派会館』を建てる。
1899 ジークムント・フロイトが『夢解釈』を発表する。
1900〜01 クリムトが『哲学』を公開するも、あまりにも気味の悪い絵だという理由で受け取りを拒否する。それに反発するように『医学』を続けて公開するが、同様の理由でクリムトはさらなる非難を受ける。
1907 『法学』を含め3点が完成したものの、結局クリムトからこの依頼を断る。以降、クリムトは公共芸術との関わりを断ち、アヴァンギャルドの舞台からは撤退して、上流階級の人々の肖像画を中心に制作を行う。
1918 グスタフ・クリムト死去
ここで重要となるのは“ウィーン分離派”による先進的な芸術活動、そしてフロイトによる精神分析学の発達です。
ひとくちメモ
アヴァンギャルド:非常に先進的で、時代の主流よりも先をいっているため、公的機関とは対立するような芸術のことです。日本語では「前衛」などと訳されます。
〜ウィーン分離派〜
1890年代ドイツでは、美術の規範とされるアカデミーから離れ、革新的な表現・新しい理念の追求を目指し“分離派(セセッション)”という芸術運動が発足します。ミュンヘン分離派(1892年)、ウィーン分離派(1897年)、ベルリン分離派(1899年)とあるのですが、クリムトを中心として結成されたのがウィーン分離派です。そこには建築家であるヨーゼフ・マリア・オルブリッヒやヨーゼフ・ホフマンも参加しており、彼らの設計によって『ウィーン分離派会館』が発足からほどなくして建てられます。
会館の入り口上部には「時代には芸術を、芸術には自由を」といったモットーが掲げられ、またオルブリッヒは「芸術を愛する人々の避難所」としてこの会館を設計したことから、アカデミーとは対立するものの、それはあくまで個人の表現・自律的な表現を確保するため、というウィーン分離派の信条がうかがえます。
さて、クリムトは1894年に“医学”“哲学”“法学”というテーマで天井画の依頼をウィーン大学から受けます。
・混沌とした空間の中で絡み合う肉体、啓蒙的に光が闇を照らすのではなく、闇が光を覆い尽くすように描かれています。合理主義的な哲学に対するクリムトの疑問がうかがえます。
・死体や骸骨など“死”を直接的に示すモチーフが多く描かれています。癒しや救いとしての医学ではなく、生と死が一体となったものとして医学というテーマをクリムトは扱ったのでしょう。
・三人の女に囲まれた男がタコの触手に縛られており、タコの口がちょうど男の股の位置にあります。このことから、法学、つまり罰とは去勢されることだとクリムトは解釈したのでしょう。
これらの作品を手がけていた時期、クリムトはすでに分離派と深い関わりがありました。大学側は大衆の規範となるような作品を期待していたため、そこからかけ離れたクリムトの作品を非難し、受け取りを拒否します。分離派とアカデミー、もとい分離派と公共芸術では、目指していたものに大きな違いがあったということを、この一連の出来事は象徴しています。
〜精神分析学と美術〜
ウィーン分離派と時代を同じくして、フロイトによる精神分析学が発展を遂げます。フロイトと分離派に直接的な関わりこそありませんでしたが、両者に共通するようなことがらは多く見受けられます。
フロイトが1898年に出版した『夢解釈』では「抑圧された本能や無意識がもつ欲望の解放」についてが語られ、この中で“夢”は「解放を望む欲望とそれを抑圧しようとする葛藤をイメージ化したもの」であると解釈されています。
解放と抑圧、解放を表現として捉えるならば、抑圧された欲望を絵画によって表現(解放)したクリムトのように、分離派と精神分析学の密かな結びつきを理解できます。
また、フロイトは「エス」「超自我」「自我」といった考えを提唱しました。それぞれ簡単に記すと、
エス:本能や欲望のこと
超自我:道徳的、社会的に適切な行動をするよう促すもの
となります。
クリムトの絵画は、夢や空想など主観的・個人的な体験に基づいたものが多く、そのような私的な表現は当時の公共芸術とはかけ離れていました。権威であるアカデミーや国家との対立、そこに対する葛藤といった点で、精神分析学とのさらなる関連性を見いだすことができます。
精神分析学と美術は今日に至るまで様々なかたちで関わりあっていますが、ウィーン分離派とフロイトとの関係はそのはじまりといえるかもしれません。
〜今回の探索スポット!!〜
今回紹介した作品は次の場所で見ることができます。
『接吻』
▶︎オーストリア・ギャラリー Prinz Eugen-Straße 27, 1030 Wien, オーストリア
『死者の書』
▶︎ 大英博物 Great Russell St, Bloomsbury, London WC1B 3DG イギリス
『ユスティアヌス帝、主教マクシミアヌスと従者たち』
▶︎サン・ヴィターレ聖堂 Via San Vitale, 17, 48121 Ravenna RA, イタリア
『風神雷神図』
▶︎建仁寺 〒605-0811 京都府京都市東山区小松町584
『ウィーン分離派会館』
『ベートーヴェン・フリーズ』
▶︎ウィーン分離派会館 地下展示室 Friedrichstraße 12, 1010 Wien, オーストリア
『哲学』『医学』『法学』は1945年に焼失。白黒写真と習作のみが現存しています。
さて、今回はここまでとさせてもらいます!
ではではさようなら〜!
参考図書
『世界美術家大全』
『ART SINCE 1900(図鑑1900年以後の芸術)』
参考記事
精神分析とは?フロイトの心の理論の仕組み、対象とやり方、実施場所を説明します | LITALICO仕事ナビ
美術探索隊!!〜自己紹介編〜
我々はどこから来たのか
我々は何者か
我々はどこへ行くのか
第0回
どうもこんにちは。塚原正太郎と申します。
私は作品制作をしつつダラダラと毎日を過ごす美大生で、自分の制作について日々悪戦
苦闘を強いられております。
そんな私ですが何故このブログを始めたのかというと理由は3つほどあります。
- 美術の歴史を順序良く知りたいから
- 美術に関するあれこれを紹介したいから
- 日記や備忘録として日々の思いつきを記録したいから
主にブログを始めた動機が1番目と2番目なので、私自身の美術勉強を兼ねた作品・作家紹介ブログになると思います。
本やインターネット、人から聞いた話などをもとに書いていく予定ですが、もし誤りや補足したい情報があった場合はどんどん言って下さい。
三日坊主な私ですが、定期的に更新していくように頑張るのでよろしくお願いします。